チョコレートの歴史|固形化とクエーカー教徒

カカオ豆が飲み物の原料として用いられ、ココアとして広まっていく流れは、他のページで書きました。
では、固形チョコレートの誕生は、いつなのか? その問いに答えるページです。
固形チョコレート

1730年のイギリス人「飲料のココアを作っている時間がないとき、ココアの塊を1オンスかじって、そのあとで液体を飲む。胃のなかでかき混ぜあわせるのだ」
これは、あくまでココアの塊を食べた人の話。
固形の食べるチョコレートが作られたのは、1847年。場所は、イギリス西部の港湾都市「ブリストル」でした。
その流れは、次の通り。
- 1750年代:フライが、ココアの製造を開始
- 1761年:フライがチャーチマンの水力タービン、製法などを一式購入
- 1769年:ワットが蒸気機関を改良。動力源は水力から蒸気へ
- 1795年:フライの工場でも、カカオ粉砕機に蒸気機関を導入
- 1828年:ヴァン・ホーテンがココアバターを搾り出す技術を開発
- 1847年:フライがカカオマスにココアバターを加え、固形物に

チャーチマンとは、ココア製造業者のウォルター・チャーチマンのこと。1727年に、カカオ豆を挽く石臼に水力タービン取り付け、1729年にはイギリス王のジョージ2世から機械の使用許可を得た人。
ヴァン・ホーテンに関しては、ココアの解説ページで触れています。
兎にも角にも、搾油していないカカオマスに、ココアバターを加えることで、より多くの砂糖を溶かし込めるようになり、苦味が軽減。冷ますと、成形や型抜きも容易になり、固形チョコレートが誕生しました。
※ フライ家は代々カカオに携わっているのですが、ジョセフ・フライの曾祖父が、祖父がと書くと字数が増えるので、苗字のフライだけにしています。
本当の発明者
先の項目でワットの蒸気機関について触れましたが、あくまで改良です。下記の文章を見れば、発明に対する考え方が変わるかも。
実際に、「XがYを発明した」として知られる発明の陰にも、あまり知られていない先駆者が存在する例は多い。たとえばわれわれは、ジェイムズ・ワットは、やかんから立ちのぼる湯気にヒントを得て、「一七六九年に蒸気機関を発明した」と聞かされている。しかし、これはよくできた作り話であって、ワットが発明を思いついたのは、トーマス・ニューカメンが五七年前に発明し、一〇〇台以上が製造されたニューカメン型蒸気機関を修理していたときである。そして、ニューカメンの前には、英国人のトーマス・セイヴァリーが一六九八年に蒸気機関で特許をとっていた。そして、セイヴァリーの前には、一六八〇年頃にフランス人ドニ・パパンが蒸気機関を設計していた(しかし、実際には作製していない)。しかも、パパンの前にも、オランダ人の科学者クリスティアーン・ホイヘンスをはじめとする先駆者がいて、蒸気機関に着目していたのである。<中略>
功績が認められている発明家とは、必要な技術を社会がちょうど受け入れられるようになったとき、既存の技術を改良して提供できた人であり、有能な先駆者と有能な後継者に恵まれた人なのである。
引用元:銃・病原菌・鉄 下巻
実際、発明家が想定した用途じゃない方面で使われた物もありますし、不要とされた発明品の需要を発明家以外が見出した例もあります。なので、使われていない発明をチェックするうち、画期的な使用方法を思いつく可能性は、あなたにも……。
カイエが見たチョコレート
フランソワルイ・カイエは、チョコレートに精通していました。彼の食品店で1819年からチョコレートを「カイエ」の名で販売していました。しかし、彼が販売していたチョコレートは、粉砕されたカカオ豆から作られた苦みのあるペーストで、主に強壮剤や飲み物に追加するために使われていました。
引用元:ブランドヒストリー 「カイエ」
スイスで最古のチョコレート・ブランド「カイエ」のスタートは、1825年。
フランソワ=ルイ・カイエが、イタリアで挽いたカカオ豆と砂糖を調合した食品を発見したことから始まります。
それが、どんな物だったのか……。チョコレートの起源的に、気になるところ。フライが固形化した1847年より前なので。
オルメカ人のチョコレート
チョコレートの歴史は、スペイン人によるアステカ侵略より後で語られることが多いです。それ以前は、あまり記録が残っていないようなので、仕方ないかもしれません。
そんなこともあり、チョコレートと聞いてイメージする原型は「ジョセフ・フライから」としましたが、加工処理されたチョコレートを最初に作り出したのは、3,000年ほど前のメキシコ南部低地に住んでいたオルメカ人という話も。
「加工処理されたチョコレート」であり、固形物という表記はなかったはず。その後の時代の絵文字からすると、やはり飲み物なんでしょうけど……。
※ ココアバターが溶ける温度が28~33℃だとしたら、冷蔵庫でもない限り“固まらない”でしょう。カカオの生育に適している地域は、平均気温が27℃以上の場所ですから。というか、バター成分が溶け、種子の養分にならないと、植物として成長の仕様がない。
クエーカー教徒の三家

クエーカーは、キリスト教プロテスタントの一派である「キリスト友会」の呼び名。神秘体験で体を「震わせる(quake)」ので付けられた俗称。会員自身はフレンズと自称。
創始者はジョージ・フォックス。有名な活動としては、奴隷貿易廃止運動をする組織の創設。
信仰の核心にあるのは、万人は霊的に平等であるという聖霊主義。祈祷や典礼を批判し、「内なる光(聖霊)」の導きに従うという教えです。
チョコレートを固形化したフライも、クエーカー教徒でした。このクエーカー教徒が、チョコレートの歴史に大きく関わっています。チョコレート御三家は次の通り。
- フライ家
- キャドバリー家
- ラウントリー家
この三家は親しい間柄だったので、同業者として協力し、産業資本家として成長していきます。
クエーカー教徒は、教区教会への「十分の一税」の支払い、脱帽・跪坐(ひざまずいて座ること)・低頭・武力の使用を拒否したので、非国教徒として弾圧されました。迫害に抵抗するため、結束力を強める流れとなり、三家は親しくなったのでしょう。
また、「十分の一税」の支払いを拒否した場合、農民なら家畜、商業者は在庫品が没収されるので、損失が少ない商業を選び、都市部に移動して商業を生業にした背景もあります。
キャドバリーのココア
イングランドのバーミンガムで暮らしていたジョン・キャドバリーは、1824年にココア、コーヒー、紅茶を売る食料品店を開きます。
ヴァン・ホーテンが脱脂を発明する前なので、カカオの脂肪分対策がココア製造業者の課題でした。言ってしまえば、でんぷん粉や小麦粉などの混ぜ物の分量、または何を用いるかが工夫のしどころ。そんな感じ。
キャドバリーの店で人気になったのは、ミルク・ココアでした。粉末のミルクを入れたんですね。
このジョン・キャドバリーの息子ジョージは、ヴァン・ホーテン社でココア圧搾機を買い、砂糖以外の混ぜ物を廃した「ココア・エッセンス」を生み出します。
なお、キャドバリーは2010年にクラフトフーズが買収しています。
ラウントリーのココア
イングランドのヨークでは、ラウントリー(ロウントリー、またはロントリー)がココア・チョコレート・メーカーに成長。19世紀後半に、媒介粉末を混ぜない砂糖とココア・パウダーのみの製品を出します。
混ぜ物をしないとカカオマスは固くしまるので、ロック・ココアと呼ばれました。1880年には、改良された「エレクト・ココア」が発売。
20世紀になると、日本でもラウントリーのココアが発売されるようになります。ラウントリー社と提携し、輸入していたのは森永製菓株式会社です。
なお、ラウントリーは1988年にネスレが買収しています。
ココア・パウダーの改良
ココア・パウダーの改良が進んだ背景には、関税の引き下げによる砂糖価格の下落があったようです。
こうして、イギリスでは労働者階級でも砂糖を消費するようになり、砂糖を使った加工食品が浸透していきました。
なお、ジョセフ・フライの曽祖父が興したJ・S・フライ・アンド・サンズ社は、キャドバリー社と資本統合しています。
キットカット

日本ではネスレ日本が製造元になっていますが、「キットカット」のオリジナルメーカーはラウントリーです。
誕生したのは、ベンジャミン・シーボーム・ラウントリーが社長の頃。この人は、『Poverty, A Study of Town Life』という貧困調査の著作でも有名です。
このヨーク市の貧困調査で、5人家族が週に最低必要な経費は21.8シリングという結論を出しています。これに満たない生活は「衣食住に事欠く」絶対的貧困で、ヨークの9.91%にあたったとか。
また、子どもの幼少期と親の高齢期に貧困が深刻化することを明らかにしました。これが老齢年金や子ども手当の創設に繋がります。
他に、シーボーム・ラウントリーが関わったことには、成人学校運動があります。これは10代の離職率の高さが目立っていたので、その対策として教育プログラムの整備を進めるというもの。
社内で行われる技術の高さを競うコンクール、部門や作業室ごとのダンス・パーティ、ピクニックや小旅行も、離職率対策だったのかも。
ある意味、その極めつけが工場評議委員会制度。これは労働者の代表と協議しながら、経営者が工場を運営する仕組みです。この制度を通じ、1919年には週休二日制を実現。労働時間は、44時間に減ったとか。
1922年に、ラウントリー社内に産業心理学部門が開設されたことを見ても、画期的な取り組みをする会社だったように思えます。産業心理学を用いて、「自主的な労働意欲を、どのように高めるか」を追求した姿勢は、ブラック企業の経営者に欠けている視点かもしれませんね。

話を「キットカット」に戻します。
キットカットのデビューは1935年。当初の名前は、チョコレート・クリスプでした。ウェハースをチョコレートで包んでいるのは、この頃から。
製造にあたって課題となったのは、このウェハースだった模様。クリームをウェハースで挟んで、細長いビスケット「フィンガー」を作ります。そう、キットカットの中心部分の名称です。
でもって、あの溝。フィンガーが溝を挟んで4つ繋がっているのを4フィンガーと呼ぶらしいので、写真は2フィンガーです。オリジナルのチョコレート・クリスプは、4フィンガーが基本形で、1930年代の価格は2ペンスでした。
チョコレート・クリスプは、朝から体を動かして働く男性が、一息入れるときに食べることを想定して作られたそうです。キットカットが登場する前は、アルコールで血糖値を上げていたので、身体や意欲を損なって欠勤に繋がったとか。
キットカットの語源は省きますが、1937年にはキットカット・チョコレート・クリスプと呼ばれるように。1939年に第二次世界大戦がはじまると、原料不足から青のラッピング・ペーパーになります。
チョコレートの大切な原材料の一つである牛乳の供給がままならなくなり、ロントリ―社は、「キットカット チョコレートクリスプ」のレシピの変更を余儀なくされました。レシピおよび味の変更に伴う、消費者からの信頼を失うことを懸念したロントリ―社は、「チョコレートクリスプ」という名前をパッケージから外して「キットカット」だけを残し、さらにこれまでの赤いパッケージから青に変更。「戦争が終わるまでチョコレートクリスプは作れません」と広告を打ちました。
とまぁ、キットカットという商品ひとつを取ってみても、いろんなことが見えてきます。
戦時中、ラウントリー社は兵士への配給食品として、ビタミンを添加したチョコレートを作っていました。「パシフィック&ジャングル・チョコレート」は、気温の高い熱帯でも溶けないよう製造されたとか。
ミルク・チョコレート

19世紀、カカオ豆の供給は増加しますが、その多くは苦味が強いフォラステロ種でした。
固形化したチョコレートには、カカオ豆の特徴が出やすいので、この苦味の強さが問題となります。
その難点をミルクで解決したのが、スイス人の薬剤師アンリ・ネスレと、ロウソク製造業のダニエル・ペーターでした。ロウソク製造業と言っても、フランスのリヨンにあるココア製造工場で働いた経験がある人です。
アンリ・ネスレは薬局経営の傍ら、乳児用の粉ミルクの開発をしていました。この粉ミルクをチョコレートに入れるよう、友人だったダニエル・ペーターに進言します。
当時のチョコレートは材料の粒子が粗く、粉ミルクも同様だったので、ザラザラした食感だったようです。それをコンデンス・ミルクの使用で解決し、ミルク・チョコレートになったのが1876年。

このネスレこそ、国際的な食品総合メーカーのネスレの創業者です。
1867年のスイス。早産児が母乳を飲むことができず、有効な母乳代替食品の不足から多くの乳児が栄養不足で亡くなっていた時代でした。この事態を知ったアンリ・ネスレは、自らが新しく開発した乳児用乳製品をある男の子に与えます。男の子はこの乳製品だけは消化することができ、命を取り留めました。
引用元:創業者 アンリ・ネスレ
ちなみに、このチョコレートのザラザラ感は、ロドルフ・リンツが解決します。
ベルギーのチョコレート事情
ベルギーでも、イギリスと同じようにココアを取り扱う業者が増えました。
ただ、イギリスやオランダとの違いは、工場生産ではなく家内工業だったこと。パン屋がパンと一緒に、チョコレートも売る。そんな感じでした。
ヴィタメールも、1910年創業のパン屋です。アイスクリームも売っていました。
こんな感じでチョコレートを売るうちに、工夫するようになっていきます。
1912年に、ノイハウスはプラリーヌの製造を開始。プラリーヌは、チョコレートの中に、クリームやジャムが入った一口サイズのチョコレート菓子です。別名、ボンボン・ショコラ。
ベルギーのプラリーヌ製造の特徴は、モールドという金型にチョコレートを流し込み、しっかり固めて外型を作ること。そのあと、中身を詰めています。
対して、フランスでは中身を完成させてから、チョコレートを上掛けするので、金型は使いません。
日本のチョコレート事情
日本では、ココアとチョコレートが、ほぼ同時期に入ってきます。
1878年、東京日本橋の米津風月堂が、12月24日の『かなよみ新聞』に「貯古齢糖」、25日の『郵便報知新聞』に「猪口令糖」の名称で広告を出しています。これは原料チョコレートを輸入し、加工したものらしいです。
1918年、森永製菓がカカオからのチョコレートづくりを開始します。製造用の機械はアメリカで買い付けたもので、製造指導の技師もアメリカから。
森永のミルクチョコレートは、1920年当時で1枚10銭でした。女工の賃金は1日20銭、大福は1個5厘前後だったので、高いですね。10厘で1銭、1銭は0.01円というレートのはず。
1920~30年代、手に入れやすかったのは「玉チョコ」や「棒チョコ」でした。森永製菓の「玉チョコ」は、真ん中にクリームが入っていて、チョコでコーティングしたものでしたが、チョコの部分を剥がしてクリームだけを食べた事例も……。
1940年になると、戦争の影響でカカオ豆の輸入がストップします。とはいえ、指定された業者は対象外で、そこは軍ルートでカカオが配給され、ココアバターから解熱剤や座薬が作られました。
のちに大東カカオの社長となる竹内政治さんが経営する竹内商店では、チョコレートにカフェインを混ぜたものを「居眠り防止食」として作ることに。
エアコンの無い潜水艦の艦内気温は高く、チョコレートが溶けてしまう件に関しては、特殊な機械で圧縮した「溶けないチョコレート」で対応。
1940~50年代、カカオが入ってこなくなったので、代用品による開発が行われました。いわゆる「グル・チョコレート」の登場です。
代用品リストは、次の通り。
- 砂糖⇒グルコース(ブドウ糖)
- カカオ⇒百合根、球根、オクラ、チコリ、芋類、小豆
- ココアバター⇒大豆油、椰子油、ヤブニッケイ油
先に書いた球根は、チューリップのもの。香りづけは、バニラでしていました。
なお、「ギブ・ミー・チョコレート」と進駐軍に言って貰えたのは、ハーシー社のチョコレートだったとか。
当時のパッケージかは知りませんが、第二次世界大戦の映画だと「太陽の帝国」にハーシーのチョコレートが出てきます。